朱莉はペットショップに来ていた。ゲージの中には様々な犬が入れられている。「フフ……どの犬も皆可愛いな…」ガラス越しから愛らしい子犬たちを見つめていると、若い女性スタッフが朱莉に話しかけてきた「お客様。お気に入りのワンちゃんは見つかりましたか?」「はい。一応飼いたいと思う犬はいるんですけども……」「どちらのワンちゃんがよろしいのですか?」「あの、こちらの子犬がいいかなって思ったんですけど」朱莉が指さした犬は生後60日のオスのトイ・プードルであった。「ああ、このワンちゃんですね。最近お店に並ぶようになったんですよ? 中々人気のワンちゃんですからね」「やっぱりそうなんですね? 実は私一度もペットを飼った事が無いんですけどネットで調べたら初心者にも飼いやすいって書いてあったので」「ええ、そうですね。初心者向きのワンちゃんですよ? 抜け毛や体臭も殆ど無くて甘えん坊さんですよ? 食費もそれ程かからないし……。あ、でも吠え声は割とよく通る方なので訓練はした方がいいかもしれませんね」「訓練ですか……何だか難しそうですね」朱莉が考え込むと、女性スタッフが言った。「それでしたら、こちらで信頼のおけるドックトレーナをご紹介しますよ」「あ、それはいいですね。是非お願いしたいです」そこまで言って、朱莉はハッとなった。これではもう完全にこの目の前のトイ・プードルを飼う流れになってしまっている。「あの……子犬を何も準備が無い内にいきなりその日連れて帰る、って言うのどうでしょうか?」「う~ん……そうですねえ……やはり事前に準備はしておいた方がいいと思いますよ」「お金だけ支払って子犬を迎え準備が整ったら引き渡しと言う形をお願いしても大丈夫ですか?」朱莉は遠慮がちに尋ねてみた。「ええ。問題ないですよ。それではそうされますか?」女性スタッフはにこやかに答えた。「はい」朱莉は返事をしつつ、トイ・プードルの値段を見て息を飲んだ。価格は税込みで52万円となっている。(た、高い……。他の犬よりも明らかに高いな……。犬ってこんなに高い物だなんて知らなかった。だけど……)朱莉は目の前にいるトイ・プードルをじっと見つめた。愛らしい黒の瞳でじっと朱莉を見つめるその子犬は、まるで早く朱莉に飼い主になって貰いたいと訴えているように思えてしまった。(すみません翔先輩。ち
「どうもお待たせいたしました。ではこちらがお客様がお買い上げになられた全ての商品になります」配達をしてきた若い男性店員から荷物を受け取る朱莉。「どうもありがとうございました」男性店員は明るい声で言うと、部屋を出て行った。「さて……それじゃ、準備しようかな?」朱莉は袋から次々と買って来た商品を取り出し、子犬を迎える為の準備を始めた――「ふう……こんなものかな?」広さが39畳あるリビングに設置されたサークル、ベッド、犬用トイレマット、ペットシーツ、おもちゃ等々が全てサークルの中に入っている。肝心の犬は5日後に朱莉に引き渡される事になっている。さらに少々気が早いかもしれないが、来週からはドッグトレーナーのしつけ訓練も始まる。朱莉はワクワクしていた。今迄単調だった生活の日々とも、もうすぐお別れ。新しい家族が誕生するのである。朱莉はスマホに収めてきたこれから新しくやってくるトイ・プードルの写真を眺めた。お店の許可を貰って、写真を撮らせてもらったのだ。「これからよろしくね」愛おしそうに写真を眺めて、ふと思い出した。琢磨から翔に飼った犬の写真を送って欲しいと頼まれていたのだ。(まだペットショップにいるけど……いいよね?)実際にはまだ自宅に来ていないが、もう支払いは済んでいるし、5日後にはここに来ることが決定している。ついでにかかった費用も伝えた方が良いだろう。朱莉はレシートと領収書の画像をスマホで取ると、メッセージを打ち込んだ。『こんにちは。本日、ペットショップでこちらの犬を買いました。金額は税込みで52万円でした。子犬を迎えるにあたり必要な品物を買い揃えた所、合計で100万円近く使ってしまいました。子犬がやって来るのは5日後になります。一度に沢山のお金を使ってしまい、申し訳ございませんでした。翔さんによろしくお伝え下さい』そして犬の画像ファイルと、レシートの画像を添付して琢磨に送信した。****「全く朱莉さんは……翔に気を遣い過ぎだ」琢磨は送られてきたメッセージを読みながら溜息をついた。確かに一般庶民が一度に100万以上の買い物をするのは、滅多に無いことだろう。だが、朱莉は仮にも鳴海グループの副社長の妻である。明日香などは普段から湯水のようにお金を使っているというのに……。「まあ、いいか……翔に電話するか」琢磨は翔のスマホに電話
――年末翔と明日香はハワイの別荘に来ていた。現在2人は別荘のバルコニーから海に沈む夕日を眺めている。「素敵……今年も翔とこうして2人きりでハワイの別荘で過ごせるなんて」明日香はうっとりとした目で翔を見つめる。「何で2人で過ごせないと思ったんだ?」翔は明日香の肩を抱きながら尋ねた。「だって翔。貴方は書類上とはいえ結婚したでしょう?」明日香は翔をじっと見つめた。「確かに結婚はしたけど、何度も言ってるだろう? 彼女は所詮祖父の目を胡麻化す為の妻だって。だから敢えて大人しそうな女性を選んだんだ。その証拠に今まで彼女の方から一度でも俺達に何か文句を言ってきたことでもあったか?」翔の問いに明日香は首を振った。「いいえ、無かったわ」「だろう? だから明日香は何も心配することは無い。今までと同じ生活を俺達は続けていくだけだよ」「だけど一つだけ不安なことがあるわ」明日香が不意に俯く。「不安なこと? 一体それは何だ?」「朱莉さんよ……。彼女、私の目から見てもすごく綺麗な女性でしょう? しかも女らしいし。彼女に心変わりなんて絶対にしないわよね?」その顔はとても真剣なものだった。「当り前だ。俺が明日香以外に心変わりなんてするはずがないだろう?」明日香の髪を撫る翔。「本当に? 本当に信じていいのよね? 私はね、この世で一番大好きな人は翔。貴方よ? だから、貴方の一番も常に私にしておいてよ? 例え私達の間に子供が生まれようとも私が一番大切なのは翔だけだからね? それを忘れないでね?」明日香は翔の首に腕を回す。「分かったよ明日香。例え新しい家族が増えたとしても、俺が一番愛するのは明日香だよ……」翔は明日香を抱きしめ、自分の心の中に暗い影が宿るのを感じた。(明日香。何故、自分の子供を一番に愛することが出来ないのに……お前は子供を欲しがるんだ?) 実はここ最近、明日香から子供が欲しいと翔はねだられていたのだ。しかし、カウンセラーの意向も聞き、子供を持つのはまだ無理だと言われていた。いや、それ以前に明日香の今の精神状態では妊娠中の身体の変化についていくことは難しいだろうと忠告されていたのである。今回翔が明日香の望み通りハワイに2人きりでやってきたのも、子供を持つのは後数年は考え直そうと説得する意味合いもあったのだ。 翔は一度深呼吸をすると、明日香に
「あ、明日香……。突然どうしたんだ?」久しぶりに明日香が怒りの感情を露わにしたことに翔は動揺した。「私が子供が嫌いなのは知ってるでしょう? 言うことは聞かないし、所かまわず泣くし、1人じゃ何も出来ないし……。小さい子供なんてね……犬猫と同じよ!」(い、犬猫と同じなんて……)明日香のあまりの言い分に絶句してしまった。(なら何故明日香は子供を望むのだろうか?)「明日香。もしかして子供好きの俺の為に無理して子供を産もうとしてくれているのか……?」しかし、明日香からの答えはあまりにも意外な内容だった。「いえ。私が子供を望むのはね……」明日香は翔に耳打ちをした。「!」翔は明日香の言葉にわが耳を疑ってしまった。「明日香……お前、本当にそんな理由で子供を欲しがっていたのか……?」震える声で翔は明日香に尋ねた。「あら……? そんな理由ですって? これって子供を産むのに十分な理由になると思うけど?」明日香は翔の頬に触れた。「すっかり日が落ちちゃったことだし、部屋に入りましょうよ。ワインで乾杯しない?」明日香は笑みを浮かべると部屋の中へと入って行った。「明日香……」1人取り残された翔は深いため息をつくと、琢磨にメッセージを送った――****ハワイ時間深夜1時――「琢磨、朱莉さんの今日の様子はどうだった? 何か困ったこととかありそうだったか?」ウィスキーを飲みながら翔は琢磨に尋ねた。『お前なあ……。そんなに様子が気になるなら自分から彼女に直接連絡とればいいだろう?』電話越しから琢磨のうんざりした声が聞こえてくる。「いや、それは無理だ。何故なら……」『朱莉さんに内緒で明日香ちゃんと2人でハワイに来ている。下手に連絡を入れて、ハワイにいることを知られたら肩身が狭い。って言いたいんだろう?』「何だ……良く分かってるじゃないか」『当たり前だ。お前と何年付き合ってると思ってるんだ?』琢磨の呆れたような声が受話器越しから聞こえてくる。「そうだよな……。何でもお見通しか……。それで朱莉さんの飼ってる犬の様子だが……」『ああ、分かってるよ。……ったく……。朱莉さんから子犬の動画が送られてきているから、後でお前のアドレスに転送しておいてやるよ』「ありがとう、すまないな」『そういう台詞はな……朱莉さんに直接伝えてやるんだな』「そうだよな
年が明けた1月2日―- 「マロン、暴れないで。身体洗えないから」今朱莉は新しく家族に迎えたトイ・プードルの子犬のシャンプーの真っ最中だった。朱莉は仔犬の名前を『マロン』と名付けた。それは犬の毛並みが見事な栗毛色をしていたからである。ブリーダーの女性に名前と由来を説明したところ、とても素敵な名前ですねと褒めて貰えたのも凄く嬉しかった。「はい、マロンちゃん。いい子にしていてね~」大きな洗面台にマロンを乗せ、お湯の温度を自分の腕に当てて計ってみる。「うん、これ位でいいかな?」マロンはつるつる滑る洗面台の上が怖いのか、さっきまで暴れていたが、今は大人しくしている。シャワーの水量を弱くして、そっとマロンに当てると、最初ビクリとしたが余程気持ちが良かったのか、途中で目をつぶって幸せそうな?顔でじっとしている。「そう、良い子ね~マロンちゃん」朱莉は愛しむようにマロンの身体にシャワーを当てて、シャンプーで泡立てて綺麗に洗ってあげる。マロンはじっと目を閉じて、されるがままになっている。丁寧にシャンプーを流し、ドライヤーで乾かしてあげるとフカフカで、それは良い匂いが仔犬から漂っている。「ふふ……。なんて可愛いんだろう」マロンを抱き上げ、朱莉は幸せそうに笑みを浮かべた。マロンが朱莉の家にやって来たのは年末が押し迫った時期だった。毎年、年末年始は朱莉は狭いアパートで一人ぼっちで過ごしていたが、今年は違う。広すぎる豪邸に大切な家族の一員となった仔犬のマロンが一緒に過ごしてくれているのだ。(私って多分恵まれているんだよね……?)マロンを相手に遊びながら、朱莉は翔と明日香のことを思った。(翔さんと明日香さんはどうやって年末年始を過ごしているんだろう……。もう少しあの2人と交流が出来ていれば、おせち料理の御裾分け出来たのにな……)朱莉はテーブルの上に並べらた1人用のお重セットをチラリと見た。母親が病気で入院する前は、毎年母親と2人でおせち料理を作って食べていた朱莉は1人暮らしになってからも、お煮しめや田作り、栗きんとんに伊達巻、黒豆、数の子は最低限作るようにしていたのである。長年作り続けていたので節料理の腕前も上がり、勤め先の缶詰工場の社長夫妻に家におせちを届けていたこともあり、喜ばれていた。「でもあの2人は美味しい料理を食べ慣れているだろうから、私のおせち料理は
1時間後――朱莉がキャリーバッグを肩から下げて億ションから出て来ると既に琢磨が外で立って待っていた。琢磨は朱莉に気付くと、頭を下げてきた。「新年あけましておめでとうございます。お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした」朱莉は深々と琢磨に頭を下げた。「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。ですが……」琢磨は頭を上げる。「はい?」「それ程待ってはおりませんので気になさらないで下さい」琢磨は笑顔で答えた。そして、すぐに朱莉が肩から下げている大きなバックに気が付いた。「朱莉さん。随分大きな荷物をお持ちの様ですね」「はい。実はペットを連れてきてしまいました。あの、実はご連絡を頂いた時に既にシャンプーを終わらせていて。それで一人ぼっちで残していくのはかわいそうで……事前にお伝えせずに勝手に連れて来てしまい、申し訳ございませんでした」そして深々と頭を下げる。「そんな。どうか気になさらないで下さい。ところでこのキャリーバックの中、見せていただいてもよろしいでしょうか? 実は私も犬が好きでして……」「ええ。どうぞ」生垣にキャリーバックを置き、ジッパーを開けると、中には気持ちよさそうに眠っているマロンがいた。「え!? 寝てる。さっきは起きていたのに……」「アハハハ……。とても可愛い犬ですね。これはトイ・プードルですね?」琢磨は中を覗き込みながら尋ねた。「はい、初心者でも飼いやすいと書いてあったので。毛もあまり抜け落ちないし、匂いも少ないそうなんです」「ああ、確かにとても良い匂いがしますね。これも朱莉さんが一生懸命お世話をしている証拠ですね? でも、これならきっと……」「え? きっと……何ですか?」「いえ、何でもありません。ところで朱莉さん。いくら仔犬と言っても女性が持つには重いですよ。私が運びますから。」そう言うと、琢磨はキャリーバックを肩から下げてしまった。「あ、でもそれではご迷惑では……」「いえ、そんなことはありません。では行きましょうか?」琢磨に促され、朱莉は頷いた。歩く道すがら、琢磨が朱莉に尋ねてきた。「ところで犬の名前は何と言うんですか?」「はい、マロンていいます」「マロンですか……。あ、もしかしたら栗から取りましたね?」琢磨は笑みを浮かべた。「はい、栗毛色の可愛らしい子犬だったので」
「初詣って、この辺りで出来る場所があるのですか?」てっきり電車にでも乗るのかと思っていたのだが、一向に駅に向かう様子が無いので朱莉は尋ねてみた。「あ、すみません。まだ行き先を告げておりませんでしたよね。実は日比谷線の六本木駅のすぐ近くに出雲大社の東京分詞があるんですよ。今からそこへ行ってみようかと思っていたんです」「え? 出雲大社って……まさかあの出雲大社ですか?」朱莉は目を丸くした。「ええ、あの出雲大社ですよ」何処か楽しそうに琢磨は答える。「知りませんでした。六本木って大都会ってイメージしか無かったので……」朱莉は白い息を吐きながら言った。「……朱莉さんは殆ど自宅から外出されないんですか?」「はい。今住んでる億ションはご近所付き合いが出来そうな雰囲気でもありませんし。それに……」そこまで言うと朱莉は黙ってしまった。「あの……ご友人と会ったりとかは?」「高校を中退してからはバイトの掛け持ちや仕事で精一杯で親しい友人は特にいないんです。今の生活になるまで働いていた職場では同年代の女性もいませんでしたし」琢磨は歩きながら黙って朱莉の話を聞いていた。朱莉の今迄過ごしてきた境遇があまりにも不遇で何と声をかけてあげれば分からなかったのである。その様子を朱莉はどう捉えたのか、突然慌てた。「あ、すみません。折角お正月早々に初詣にわざわざ誘っていただいたのに。こんな気の滅入るような話をお聞かせしてしまって申し訳ございません」「いえ。とんでもありません。随分ご苦労されたきたのだと思って……。あ、朱莉さん、着きましたよ。ここが出雲大社の東京分詞です」「え? あの……ここですか? これは……随分可愛らしいですね……」てっきり有名どころの神社のように大きいのだろうと勝手にイメージを持っていたので朱莉は目の前に現れたこじんまりとした神社を見て驚いた。「すみません、朱莉さん。もしかして……驚いていますか?」琢磨が申し訳なさそうに頭をかいている。「いえ、とんでもないです。逆にすごく新鮮さを感じて感動してます。こんな都会の真ん中でも初詣が出来るなんて素敵ですよ」笑顔の朱莉を前に、琢磨は心の中で安堵した。(良かった……。取りあえず満足してもらえたようだ) その後、2人は中へ入り、お参りを済ませるとそれぞれお守りを買った。****「朱莉さんは何のお
琢磨が連れて来てくれたカフェは可愛らしい犬のイラストが描かれていたカフェだった。「このカフェは人間用のメニューだけでなく、犬用のメニューも豊富にあるんですよ」琢磨が真顔で『人間用』と言うので、思わず朱莉は吹き出しそうになってしまった。「どうしましたか?」「い、いえ……。九条さんて真面目なイメージしか無かったので……何だか意外な気がしただけです」「そうですか? そんなに真面目に見えますか? でもそう思っていただけるなら光栄ですね」 その後、朱莉はシフォンケーキとコーヒーのセット、琢磨はエスプレッソとチーズケーキのセットを注文した。「マロンにはこちらのケーキは如何ですか?」琢磨はメニュー表を見せた。それは手のひらサイズの可愛らしい3段重ねのデコレーションケーキである。「ほら、このケーキの説明を読んでみてください。何と魚や野菜のペーストで作られたケーキなんですよ」「うわあ……すごいですね。見た目はまるでケーキ見たいです。身体にも良さそうですし……ではこれにします」2人は窓の外を見ると、そこはゲージに覆われた小さなドックランになっており、マロンが走りまわっている。やがてそれぞれ注文したメニューが運ばれ、朱莉と翔はマロンの様子を見ながらカフェタイムを楽しんだ。その後、2人は朱莉の住む億ションへ向かった――**** 億ションに到着すると、朱莉は玄関で立っている琢磨に声をかけた。「本当に部屋に上がらなくていいんですか?」「ええ。おせちを分けていただくだけですからここで待ちます。琢磨は玄関から中へ入ろうとしない。余程朱莉に気を遣ってくれているのだろう。(お待たせする訳にはいかないから急いで準備しなくちゃ)朱莉はタッパを取り出すと、次々とおせち料理を詰めていく。そして5分後――「すみません、お待たせしました」おせちの入ったタッパを紙袋に入れた朱莉が玄関先にいる琢磨の所へやって来ると紙袋を手渡した。「あの、お口に合うかどうか分かりませんが……どうぞ」「ありがとうございます」紙袋を受け取り、中を覗く琢磨。「ああ。これはとても美味しそうですね。持ち帰って食べるのが今から楽しみですよ」「いえ、ほんとに対した料理では無いので期待しないで下さいね」「そんなことありませんよ。ありがとうございます。ところで朱莉さん……」「は、はい……?
17時――「ふう~疲れた……」朱莉は億ションへ帰って来ると、部屋の窓を開けて換気をするとソファの上に座った。「今日は疲れちゃったからご飯作るのはやめよう。東京へ戻って来た記念に思いきってどこかに食事に行ってみようかな……?」朱莉の本心を言えば、航に連絡を入れて2人で何処かで待ち合わせをしたかった。一緒にお店に入り、そこでお土産のTシャツを手渡して、食事が出来ればと願っていた。だが……突然航は東京へ戻り、そこからは一切連絡が来なくなってしまったのだ。航の性格からみて、それはとても考えられないことだった。(航君は、ひょっとすると京極さんに私との連絡を絶つように言われていたのかもしれない……)何故京極がそこまでのことをするのか、朱莉には見当がつかなかった。航に会えないことを思うと悲しい気持ちが込み上げてくる。それだけ朱莉にとって、航は大きな存在だったのだ。だが朱莉は航にも京極にも理由を尋ねる勇気が無かった。暫くソファに寄りかかり、ぼ~っと天井を見上げていると突然朱莉の個人用スマホの電話が鳴り始めた。(まさか、京極さん!?)慌ててスマホを取り出すと、それは母からの電話だった。「はい、もしもし」『ああ、朱莉。今日は私から電話を入れてみようかと思ったのだけど……今忙しいの?』受話器からは意外と元気そうな母の声が聞こえてきた。「ううん、そんな事無いよ。あ、そうだお母さん。実は今まで黙っていたけど私今日東京に戻って来たんだよ?」『え!? そうだったの!? びっくりだわ……。どうして今まで今日東京へ戻ることを教えてくれなかったの?』母はやはり朱莉が考えていたのと同じ事を尋ねてきた。「うん、ごめんなさい。はっきりいつ頃東京へ戻るか日程が決まっていなかったから言えなかったの。それでね、明日お見舞いに行こうと思ってるの。沖縄で綺麗な琉球ガラスの花瓶を買ってきたから、明日持ってお見舞いに行くね?」『ありがとう、朱莉。フフフ……久しぶりに貴女に会えると思うと嬉しいわ』「うん。お母さん。私も楽しみにしてるね。それじゃまた明日」朱莉は電話を切ると、部屋が肌寒くなっていたことに気づいて部屋の窓を閉めた。いつの間にか部屋の中はすっかり薄暗くなっていたので、遮光カーテンを閉めると部屋の電気をつけた。 信じられないくらいの広すぎる部屋。今まではこの部屋で
11月1日午前8時―― 今日は朱莉が東京へ戻る日である。当初の予定では明日香達が日本へ戻って来る日に合わせて東京へ戻るはずだった。しかし、新生児を迎えるにあたり、沖縄から発送したベビー用品を受け取って部屋を用意しておきたいと朱莉が姫宮にお願いをすると、すぐに姫宮は朱莉の提案を聞き入れてくれた。(きっと翔先輩にお願いしても断られていたかも。姫宮さんにお願いしておいて良かった)ただし、翔からは億ションに戻った後は子供を迎えるまでは極力目立たない行動を取るように念を押されている。 朱莉が梱包して発送したベビー用品はもう全て六本木に発送済みだ。今は必要としない朱莉の荷物も全てまとめて発送した。このマンションには家具・家電も含めて食器類も全て備え付けだったので、朱莉自身の発送した荷物は微々たるものであった。所有する車は既に数日前にフェリーで東京の方へ輸送手続きを済ませてある。明日には運転代行業の業者が億ションまで運んでくることになっていた。 朱莉が乗る飛行機の便は11時。那覇空港へ行くにあたり、モノレールを利用する予定であった。「早めに那覇空港へ行ってお土産屋さんでも見ていようかな……」朱莉は呟くと、部屋の掃除を始めた。今までお世話になって来た部屋なので念入りに掃除を始めた。夢中になって掃除をし、気が付いた時には9時半になっていた。「大変。もうこんな時間だ。早く出かける準備をしなくちゃ」着がえをし、簡単にメイクをすると最後に忘れ物が無いか部屋の中をざっと確認し、足元にいたネイビーを抱きあげた。「ネイビー、いよいよ東京へ帰るよ」そして暖かなネイビーの身体に顔を寄せた。 キャリーバックにネイビーを入れ、ショルダーバッグにキャリーケースを持って朱莉はマンションを出た。そして自分が今まで住んでいた部屋に向かってお辞儀をした。(今までお世話になりました)心の中で感謝の意を述べると、朱莉は那覇空港へ向かった——**** 朱莉は那覇空港へ向かるモノレールの中で物思いにふけっていた。実は一つ気がかりなことがあったのだ。それは京極に黙って沖縄を去ること。本来であれば京極は朱莉を追って沖縄へやって来たようなものなので、本日東京へ戻ることを告げるべきなのかもしれない。しかし、何故突然戻ることになったのか尋ねられた場合、朱莉は答えることが出来ない
1人の男が朱莉の住むマンションの前に立っていた。その男はぎらつく目で朱莉の住む部屋のベランダをじっと見上げている。その時――「……こんな所で一体何をしているんだ?」京極が男に声をかけた。「い、いや……お、俺は……」男は狼狽したように後ず去ると、背後から体格の良い背広姿の男が突然現れて男を羽交い絞めにした。捕らえられた男を京極は冷たい瞳で睨み付けた。「まだコソコソと嗅ぎまわる奴らが残っていたのか……」それは背筋がゾッとするような声だった。「は……離せ! うっ!」暴れる男を押さえつけている男性は男の腕を捻り上げた。京極は身動きが出来ない男に近付くと、肩から下げた鞄を取り上げて漁り始めた。中からデジカメを発見すると蓋を開けてメモリーカードを引き抜いた。「よ、よせ! 触るな! うっ!」さらに腕をねじ上げられて再び男は苦し気に呻いた。そんな男を京極は冷たい目で見つめると、次に名刺を探し出した。「やはりゴシップ誌に売りつけるフリーの三流記者か……。どこの誰に教えられたのかは知らないが余計な手出しはするな。もし下手な真似をするなら二度とこの業界で生きていけない様にしてやるぞ?」それは背筋がゾッとする程冷たく、恐ろしい声だった。「だ、誰なんだよ……お前は……」「仮にもお前のような奴がこの業界で働いていれば名前くらいは聞いたことがあるだろう? 俺の名前は京極だ」「京極……ま、まさかあの京極正人か……!?」途端に男の顔は青ざめる。「そうか……やはり俺のことは知ってるんだな? 分かったら、二度と姿を見せるな。さもないと……」「ヒイッ! わ、分かった! もう二度とこんな真似はしない! た、頼む! 見逃してくれ!」「……どうしますか?」男の腕を締め上げていた男性は京極に尋ねた。「……離してやれ」男性が手を離すと、男はその場を逃げるように走り去って行った。その姿を見届けると男性は京極に尋ねた。「いつまでこんなことを続けるつもりですか?」「勿論彼女の契約婚が終了するまでだ」「しかし、それでは……」「今はまだ動けない。だが、最悪の場合は強引にこの契約婚を終わらせるように仕向けるつもりだ」その時、京極のスマホが鳴った。京極はその着信相手を見ると、一瞬目を見開き……電話に出た。「ああ……。教えてくれてありがとう。助かったよ……うん。早速
10月22日—— その日は突然訪れた。朱莉が洗濯物を干し終わって、部屋の中へ入ってきた時の事。翔との連絡用のスマホが部屋の中で鳴り響いていた。(まさか明日香さんが!?)すると着信相手は姫宮からであった。すぐにスマホをタップすると電話に出た。「はい、もしもし」『朱莉さん、明日香さんが男の子を先程出産されました』「え? う、生まれたんですね!?」『はい、かなりの難産にはなりましたが、無事に出産することが出来ました。私は今副社長とアメリカにいます。副社長は日本に戻るのは10日後になりますが、私は一時的に日本へ帰国する予定です。朱莉さんはもう引っ越しの準備を始めておいて下さい。朱莉さんが今現在お住いの賃貸マンションの解約手続きは私が帰国後行いますので、そのままにしておいていただいて大丈夫です。それではまた連絡いたします』姫宮からの電話はそこで切れた。(明日香さんがついに赤ちゃんを出産……そしてこれから私の子育てが始まるんだ……。それにしても難産って……明日香さん大丈夫なのかな……?)朱莉は明日香のことが心配になった。ただでさえ、情緒不安定で一時は薬を服用していたと聞く。回復の兆しがあり、薬をやめてから明日香は翔との子供を妊娠したが、その後は翔と姫宮の不倫疑惑が浮上。結局その件は航の調査で2人の間に不倫関係は認めらず、誤解だったことが分かったが明日香は難産で苦しんだ……。「明日香さん、元気な姿で日本に赤ちゃんと一緒に戻ってきて下さい」朱莉はそっと祈った。——その後朱莉は梱包用品を買い集めて来るとマンションへと戻り、買い集めていたベビー用品の梱包を始めた。一つ一つ手に取って荷造りを始めていると、自然と琢磨や航のことが思い出されてきた。「あ……このベビードレスは確か九条さんと一緒に買いに行ったんだっけ。そしてこれは航君と一緒に買った哺乳瓶だ……」朱莉の胸に懐かしさが込み上げてくる。(あの時は誰かが側にいてくれたから寂しく無かったけど……)だが、いつだって朱莉が一番傍にいて欲しいと願っていた翔の姿はそこには無い。翔と2人で過ごした日々は片手で数えるほどしか無かった。むしろ、冷たい視線や言葉を投げつけらる数の方が多かったのだ。(でも……翔先輩。私が明日香さんの赤ちゃんを育てるようになれば少しは私のこと、少しは意識してくれるかな……?)一度
観覧車を降りた後は、京極の誘いでカフェに入った。「朱莉さん。食事は済ませたのですか?」「はい。簡単にですが、サラダパスタを作って食べました」「そうですか、実は僕はまだ食事を済ませていないんです。すみませんがここで食事をとらせていただいても大丈夫ですか?」「そんな、私のこと等気にせず、お好きな物を召し上がって下さい」(まさか京極さんが食事を済ませていなかったなんて……)「ありがとうございます」京極はニコリと笑うと、クラブハウスサンドセットを注文し、朱莉はアイスキャラメルマキアートを注文した。注文を終えると京極が尋ねてきた。「朱莉さんは料理が好きなんですか?」「そうですね。嫌いではありません。好き? と聞かれても微妙なところなのですが」「微妙? 何故ですか?」「1人暮らしが長かったせいか料理を作って食べても、なんだか空しい感じがして。でも誰かの為に作る料理は好きですよ?」「そうですか……それなら航君と暮していた間は……」京極はそこまで言うと言葉を切った。「京極さん? どうしましたか?」「いえ。何でもありません」 その後、2人の前に注文したメニューが届き、京極はクラブハウスサンドセットを食べ、朱莉はアイスキャラメルマキアートを飲みながら、マロンやネイビーの会話を重ねた——**** 帰りの車の中、京極が朱莉に礼を述べてきた。「朱莉さん、今夜は突然の誘いだったのにお付き合いいただいて本当にありがとうございました」「いえ。そんなお礼を言われる程ではありませんから」「ですがこの先多分朱莉さんが自由に行動できる時間は……当分先になるでしょうからね」何処か意味深な言い方をされて、朱莉は京極を見た。「え……? 今のは一体どういう意味ですか?」「別に、言葉通りの意味ですよ。今でも貴女は自分の時間を犠牲にしているのに、これからはより一層自分の時間を犠牲にしなければならなくなるのだから」京極はハンドルを握りながら、真っすぐ前を向いている。(え……? 京極さんは一体何を言おうとしているの?)朱莉は京極の言葉の続きを聞くのが怖かった。出来ればもうこれ以上この話はしないで貰いたいと思った。「京極さん、私は……」たまらず言いかけた時、京極が口を開いた。「まあ。それを言えば……僕も人のことは言えませんけどね」「え?」「来月には東京へ戻
朱莉が航のことを思い出していると、運転していた京極が話しかけてきた。「朱莉さん、何か考えごとですか?」「いえ。そんなことはありません」朱莉は慌てて返事をする。「ひょっとすると……安西君のことですか?」「え? 何故そのことを……?」いきなり確信を突かれて朱莉は驚いた。するとその様子を見た京極が静かに笑い出す。「ハハハ……。やっぱり朱莉さんは素直で分かりやすい女性ですね。すぐに思っていることが顔に出てしまう」「そ、そんなに私って分かりやすいですか?」「ええ。そうですね、とても分かりやすいです。それで朱莉さんにとって彼はどんな存在だったのですか? よろしければ教えてください」京極の横顔は真剣だった。「航君は私にとって……家族みたいな人でした……」朱莉は考えながら言葉を紡ぐ。「家族……? 家族と言っても色々ありますけど? 例えば親子だったり、姉弟だったり……もしくは夫婦だったり……」最期の言葉は何処か思わせぶりな話し方に朱莉は感じられたが、自分の気持ちを素直に答えた。「航君は、私にとって大切な弟のような存在でした」するとそれを聞いた京極は苦笑した。「弟ですか……それを知ったら彼はどんな気持ちになるでしょうね?」「航君にはもうその話はしていますけど?」朱莉の言葉に京極は驚いた様子を見せた。「そうなのですか? でも安西君は本当にいい青年だと思いますよ。多少口が悪いのが玉に傷ですが、正義感の溢れる素晴らしい若者だと思います。社員に雇うなら彼のような青年がいいですね」朱莉はその話をじっと聞いていた。(そうか……京極さんは航君のことを高く評価していたんだ……)その後、2人は車内で美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジに着くまでの間、航の話ばかりすることになった——****「どうですか? 朱莉さん。夜のアメリカンビレッジは?」ライトアップされた街を2人で並んで歩きながら京極が尋ねてきた。「はい、夜は又雰囲気が変わってすごく素敵な場所ですね」「ええ。本当にオフィスから見えるここの夜景は最高ですよ。社員達も皆喜んでいます。お陰で残業する社員が増えてしまいましたよ」「ええ? そうなんですか?」「そうですよ。あ、朱莉さん。観覧車乗り場に着きましたよ?」2人は夜の観覧車に乗り込んだ。観覧車から見下ろす景色は最高だった。ムードたっ
その日の夜のことだった。朱莉の個人用スマホに突然電話がかかって来た。相手は京極からであった。(え? 京極さん……? いつもならメールをしてくるのに、電話なんて珍しいな……)正直に言えば、未だに京極の事は姫宮の件や航の件で朱莉はわだかまりを持っている。出来れば電話では無く、メールでやり取りをしたいところだが、かかってきた以上は出ないわけにはいかない。「はい、もしもし」『こんばんは、朱莉さん。今何をしていたのですか?』「え? い、今ですか? ネットの動画を観ていましたが?」朱莉が観ていた動画がは新生児のお世話の仕方について分かり易く説明している動画であった。『そうですか、ではさほど忙しくないってことですよね?』「え、ええ……まあそういうことになるかもしれませんが……?」一体何を言い出すのかと、ドキドキしながら返事をする。『朱莉さん。これから一緒にドライブにでも行きませんか?』「え? ド、ドライブですか?」京極の突然の申し出に朱莉はうろたえてしまった。今まで一度も夜のドライブの誘いを受けたことが無かったからだ。(京極さん……何故突然……?)しかし、他ならぬ京極の頼みだ。断るわけにはいかない。「わ、分かりました。ではどうすればよろしいですか?」『今から30分くらいでそちらに行けると思いますので、マンションのエントランスの前で待っていて頂けますか?』「はい。分かりました」『それではまた後程』用件だけ告げると京極は電話を切った。朱莉は溜息をつくと思った。(本当は何か大切な話が合って、私をドライブに誘ったのかな……?)****30分後――朱莉がエントランスの前に行くと、そこにはもう京極の姿があった。「すみません、お待たせしてしまって」「いえ、僕もつい先ほど着いたばかりなんです。だから気にしないで下さい。さ、では朱莉さん。乗って下さい」京極は助手席のドアを開けるた。「は、はい。失礼します」朱莉が乗り込むと京極はすぐにドアを閉め、自分も運転席に座る。「朱莉さん、夜に出かけたことはありますか?」「いいえ、滅多にありません」「では美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジに行きましょう。夜はそれはとても美しい景色に変わりますよ? 一緒に観覧車に乗りましょう」「観覧車……」その時、朱莉は航のことを思い出した。航は観覧車に乗
数か月の時が流れ、季節は10月になっていた。カレンダーの3週目には赤いラインが引かれている。そのカレンダーを見ながら朱莉は呟いた。「予定通りなら来週明日香さんの赤ちゃんが生まれてくるのね…」まだまだこの季節、沖縄の日中は暑さが残るが、夏の空とは比べ、少し空が高くなっていた。琢磨とも航とも音信不通状態が続いてはいたが、今は寂しさを感じる余裕が無くなってきていた。翔からは頻繁に連絡が届くようになり、出産後のスケジュールの取り決めが色々行われた。一応予定では出産後10日間はアメリカで過ごし、その後日本に戻って来る事になる。朱莉はその際、成田空港まで迎えに行き、六本木のマンションへと明日香の子供と一緒に戻る予定だ。「お母さん……」 朱莉は結局母には何も伝えられないまま、ズルズルここまできてしまったことに心を痛めていた。どうすれば良いのか分からず、誰にも相談せずにここまで来てしまったことを激しく後悔している。そして朱莉が出した結論は……『母に黙っていること』だった。あれから少し取り決めが変更になり、朱莉と翔の婚姻期間は子供が3歳になった月に離婚が決定している。(明日香さんの子供が3歳になったら今までお世話してきた子供とお別れ。そして翔先輩とも無関係に……)3年後を思うだけで、朱莉は切ない気持ちになってくるが、これは始めから決めらていたこと。今更覆す事は出来ないのだ。現在朱莉は通信教育の勉強と、新生児の育て方についてネットや本で勉強している真っ最中だった。生真面目な朱莉はネット通販で沐浴の練習もできる赤ちゃん人形を購入し、沐浴の練習や抱き方の練習をしていたのだ。(本当は助産師さん達にお世話の仕方を習いに行きたいところなんだけど……)だが、自分で産んだ子供ではないので、助産師さんに頼む事は不可能。(せめて私にもっと友人がいたらな……誰かしら結婚して赤ちゃんを産んでる人がいて、教えて貰う事ができたかもしれないのに……)しかし、そんなことを言っても始まらない。そして今日も朱莉は本やネット動画などを駆使し、申請時のお世話の仕方を勉強するのであった――**** 東京——六本木のオフィスにて「翔さん、病院から連絡が入っております。まだ出産の兆候は見られないとのことですので、予定通り来週アメリカに行けば恐らく大丈夫でしょう」姫宮が書類を翔に手
「ただいま……」玄関を開け、朱莉は誰もいないマンションに帰って来た。日は大分傾き、部屋の中が茜色に代わっている。朱莉はだれも使う人がいなくなった、航が使用していた部屋の扉を開けた。綺麗に片付けられた部屋は、恐らく航が帰り際に掃除をしていったのだろう。航がいなくなり、朱莉の胸の中にはポカリと大きな穴が空いてしまったように感じられた。しんと静まり返る部屋の中では時折、ネイビーがゲージの中で遊んでいる気配が聞こえてくる。目を閉じると「朱莉」と航の声が聞こえてくるような気がする。朱莉の側にいた琢磨は突然音信不通になってしまい、航も沖縄を去って行ってしまった。朱莉が好きな翔はあの冷たいメール以来、連絡が途絶えてしまっている。肝心の京極は……朱莉の側にいるけれども心が読めず、一番近くにいるはずなのに何故か一番遠くの存在に感じてしまう。「航君……。もう少し……側にいて欲しかったな……」朱莉はすすり泣きながら、いつまでも部屋に居続けた——**** 季節はいつの間にか7月へと変わっていた。夏休みに入る前でありながら、沖縄には多くの観光客が訪れ、人々でどこも溢れかえっていた。京極の方も沖縄のオフィスが開設されたので、今は日々忙しく飛び回っている様だった。定期的にメッセージは送られてきたりはするが、あの日以来朱莉は京極とは会ってはいなかった。航が去って行った当初の朱莉はまるで半分抜け殻のような状態になってはいたが、徐々に航のいない生活が慣れて、ようやく今迄通りの日常に戻りつつあった。 そして今、朱莉は国際通りの雑貨店へ買い物に来ていた。「どんな絵葉書がいいかな~」今日は母に手紙を書く為に、ポスカードを買いに来ていたのだ。「あ、これなんかいいかも」朱莉が手に取った絵葉書は沖縄の離島を写したポストカードだった。美しいエメラルドグリーンの海のポストカードはどれも素晴らしく、特に気に入った島は『久米島』にある無人島『はての浜』であった。白い砂浜が細長く続いている航空写真はまるでこの世の物とは思えないほど素晴らしく思えた。「素敵な場所……」朱莉はそこに行ってみたくなった。 その夜――朱莉はネイビーを膝に抱き、ネットで『久米島』について調べていた。「へえ~飛行機で沖縄本島から30分位で行けちゃうんだ……。意外と近い島だったんだ……。行ってみたいけど、でも